怪盗リッチシリーズ

【漆黒に躍り出る】−5−

ビルを囲む車の中、夜食を簡単に取っていたワイザーが、愛妻弁当のおにぎりを手に、車外へと出た。
「警部?」
運転席側の車外に居た若い刑事が、それに気付き首を傾げる。
そこで見たのは、ビルを見上げるワイザーだった。
「何かありましたか?」
警備システムが万全だ。というビル。リッチが侵入したならば、騒がしくなる筈。
だが、目の前のビルは、静寂を保っていて、若い刑事は、上司が何を見てるのか。と、必死に目を凝らす。
「静かなものだな」
まるで、縁側でお茶でも飲んでいる様な、ワイザーの穏やかな声。
「見張りは任せて、休んで下さい」
「いや、外に居る方が、性に合ってるからな」
視線の先は、相変わらずビルのどこかで、若い刑事は、自分はまだまだなのだろうか?と不甲斐なさを痛感する。
「―君」
「…!はい」
ずっと黙ったまま、2人してビルを見上げていた中、急に呼ばれて、そちらを見る。
真っ直ぐな上司の目は、何かを思っているのか、力強いもので、これから告げられるのは、重大な事なのだ。と、若い刑事は、気合いを入れた。

視線が外された、ビルの屋上では、彼女が、ぐるりと、ビルの周りの車を、眺めていた。
北から始まり、東、南、…と、南と西の境目の角、丁度大通りを一点を目にした所で、彼女の足が止まる。
何かを感じて、車の群れを凝視してみても、ただの光の粒の固まりにしか見えない。
が、底の方から伝わるそれは変わらず、彼女は纏めていた髪から、ゴムを取り、ピンを抜く。
本当は、最上階に戻り、何食わぬ顔で、裏金を頂戴し、再びスーツを着て、会長と共に出て行くつもりであったが、そんな気持ちは、綺麗になくなり、直ぐに北へと向かう。
柵の支柱に、リールを取り付け、それから伸びるワイヤーに重りを付けて垂らし、汗でしっとり濡れた手の平を、ナップサックで拭う。
ついで、少し離れた場所に立ち、先ほどの変わった形の銃を取り出し、特殊な弾にワイヤーを仕込み、北東に向かって打つ。
それは、隣の20階建てのビルの屋上の壁に着弾し、粘度のある接着剤と杭が、ワイヤーを固定する。
そして、柵にワイヤーを巻き付ければ、逃走ルートの完成だ。
「なぁんか、厄介なのが、居るっぽいのよね……」
気を急かす悪寒の元が居ては、暢気にして居られず、睨む様に、ワイヤーの先を見ていると、体格の良い人間が、ぬっ!とビルの窓から出て来た。
そして、ワイヤーが引っ張られた。
遅い!と思いながらも、心を平常に戻していく。
ぐんぐん近付くそれは、見知らぬ顔だが、朧気なそれが、はっきりして来ると、焦りがなくなって来る。
程なく、屋上へと辿り着いた巨体。
ごちゃごちゃ五月蝿いが、いつもの様に適当に相手をし、さりげなく、分け前を徴収。
リールを柵から外し、ナップサックに入れ、用意してあった隣のビルへのワイヤーに、グローブの金具を引っ掛ける。
巨体を回収に来た騒音に、心の中で感謝しつつ、彼女は漆黒の空を、走る様に飛んだ。
こちらのビルは25階なので、かなりのスピードが出る。
その流れる景色の下、地上の光が、騒音を追い、大通りへと向かう。
彼らは、警察をからかうのを、いつも楽しんでいるので、大概が大通りへと向かうのを、知った上での、逃走ルートなので、眼下の光は、なくなっていく。
それを見届け、彼女はワイヤーにブレーキを掛け、スピードを調節する。
スピードが乗り過ぎると、屋上に激突してしまうからだ。
そして、隣のビルへと着地。
勢いで、数歩歩いたが、抜群の運動神経で、怪我は無い。
ここで暫く待つか、逃げるか、どちらが得策か?と考えて、
「気になる……」
好奇心が、先程の感覚を、確認したくなって来る。
多少、特殊メイクで、顔を変えてある。入った時と、髪型は違うので、それを取れば、問題ないだろうが。それでも、危険を感じ、彼女は首を横に振った。
「好奇心は猫を殺す。てね」
と、自分を戒め、階段を降りた。
そこは、バイクを止めたビルの敷地で、一回様子を見る為に、道路を覗く。

少し先、丁度地下駐車場の出入口を、パトカーが塞いでいるのが見える。
彼女の視線の届かない、正面玄関、裏口では人がガードしており、その指揮を取っているのは、ワイザーで、リッチの逃亡と同時に、周りを固める事を、内密に伝えられ、こうなっている。
「どうなってんのかしら?」
現場保全の為に、残っているにしては、様子がおかしい。
地下駐車場の方から、何やら言い争う声が聞こえるのだ。
その事に、首を傾げた彼女に、背後から声が掛かる。
「貴女が、忘れ物をした女性ですかな?」
渋い中年の声に、彼女は振り返った。
盗聴機で聞いた、その声に。
「さあ?何の事かしら?」
「困りましたな。現場から、人が1人消えたとなると、責任問題が発生してしまうのですよ」
「それは、大変ですわね」
「何をされていたのですかな?」
目をパチクリとして見せた彼女に、中年の男が意味ありげに空を指差す。

そこには、ちょうど、問題のビルから、こちらのビルへと渡したワイヤーがある。
「ご執心の女性が、いきなり消えたとなると、躍起になるでしょうなあ」
何を考えているのか、さっぱり読めない目、口調は強くも弱くもなく、責めている訳でもない。
だが、背中に流れる冷たい物に、悪寒のありかを、彼女は知る。
「居るべき所に戻れる。悪い話ではないと思いますがな?」
「何が望み?」
「理由と、確証。といった所ですかな」
「分かったわ」
顎を撫で、とぼけた口調の中年の男に、彼女は大きく頷いてみせた。
銃以外の疚しい物を、バイクの座席に詰め、彼女は、髪を纏めた。

地下駐車場のスロープには、1台のワゴン車が止まって居た。
そして、ワゴン車の脇で、警備員と、若い刑事が問答しており、中年の男は、若い刑事に代わり、口を開く。
「現場保全に協力願えますかな?」
「しかし……」
「リッチは既に遠く、追うのは困難では?」
渋った警備員は、細い目で見られ、ぐっと唸り、
「そちらが、邪魔をしたからでしょう」
と、苦々しい表情を浮かべた。
「まあまあ、貴方の仕事は、この会社の財産を守る事。でしたな?」
「だから、リッチを追うべく、待機していたのだ!」
「ほう?地下駐車場で、どうやって、動向を見るつもりだったのですかな?」
「ここから逃げる可能性だって、あるだろう」
「しかし、ここは、シャッターがある。それを突破するのは、少々手間だ。その可能性は、無いに等しいと思いますがな?」
鋭い視線が、警備員に注がれた。
そして、どういった理由で、ワゴン車を足止めするのか、聞かされていなかった刑事達が、成る程と納得の表情を浮かべる。
「リッチが潜んでいないか、確かめても、宜しいでしょうな?」
ワイザーの細い目が、警備会社の社名がプリントされたワゴン車へと、向けられた。

その外、ビルの外壁を昇る者が。
ワイザーによって、わざと手薄にされた、東側の壁を、銃を使って、上階に引っ掛けたワイヤーを巻き取り、辿り着いた先で、再び同じ事を繰り返し、屋上へと上がって行くのは、彼女だ。
屋上に再び辿り着くと、銃をフックに掛け、隣のビルへと伸びるワイヤーに、そのフックを掛け、滑らせる。
そして、ナップサックから、圧縮袋を取り出し、スーツを出し、それを身に付け、トートバッグにナップサックを収めた。
屋上の南東に、ビルの中へと続く扉があり、靴の底に仕込んだ、ピッキング用の道具を取り出し、簡単に開け、彼女は中へと入って行く。
階段を降りた所には、扉があり、そこにも鍵が掛かっているが、再び簡単に開け、そこを潜り、最上階へと踏み入れた。
「全く、寝不足は美容の敵なのに……」
腕時計を見、針が示す時間に、彼女は思わず溜め息を漏らすのであった。
≪続く≫