【セイント バレンタイン】

−上−

その昔、時の皇帝は、若い兵士達の、結婚を禁止していた。
それは、国に残した妻や子供を思うあまり、戦場での死を恐れて、士気が低くくなると、思ったからだ。
この話は、その頃の、一人の司教の、行動から始まります。
石畳の道、石で飾った家々、帝国の権力を象徴する円形競技場、整えられた街並みの中。
年の頃は40代半ば、衰えを知らない艶やかな黒い髪は肩で揃えられ、意思の強い瞳に、太い眉、蓄えられた髭、繊細とは無縁の骨格を持った、インパクトの強い男性が、地に着きそうな程長い、法衣を裁き、ゆったりと教会へと向かっていた。
左手に持つ、木の蔓で編まれた籠には、パンが幾つもあり、右手には、肌身離さず持っている聖書。
「司教様、商品にならない人参持っていって下さい」
「これは、有り難い。心豊かなそなたに、神のご加護があらんことを」
呼び止めた人物に向かい、簡単な祈りを捧げる男。
この男こそが、この街の司教、ヴァレンチーノである。
一見厳しそうに見える顔と、骨太な体格で、近寄り辛く見えるが、話してみれば、存外に気さくで、豪快な性格なので、慕う人は多い。
その為、街を歩いていると、こうして呼び止められ、色々とお裾分けをされるのだ。
「父さん!お帰り!」
教会の、庭先にある柵を越えると、元気な声が、司教を出迎えた。
庭で、洗濯物を取り込んでいた、ヴァレンチーノの娘だ。
年の頃は、10代半ば、真っ直ぐに伸びた黒い髪は、肩で切り揃えられ、可愛いらしい大きな瞳、丸みを帯びた顔、細いながらも、しっかり育った胸、ヴァレンチーノとは、似ても似つかない娘である。
「アメリア〜。人参を頂いてきたぞ〜」
「わぁ、じゃあ、ピクルス作らないとね」
父親の言葉に、ポン!と手を叩き喜び、微笑む娘。
彼女が幼い頃、母親が病で他界し、その後を追う様に、父親が戦死した娘を、親戚筋であるヴァレンチーノが、引き取った。
そして、本当の親子の様に生活していたので、アメリアは自然と、彼を父として慕い、今の関係がある。
「実はな、若者達の結婚を、内密に行おうと思うのだ」
ヴァレンチーノがそう切り出したのは、夕飯時であった。
狭いテーブルに乗るのは、パンとスープという質素な食卓。
テーブルを挟んだ向かい側に、アメリアが座っており、頻りに瞬きする。
「愛する者と、結婚するのは、神が与えたもうた、人間の幸福。それを、戦争などという、非生産的な事の為に、禁止するのは、道理ではないと思うのだ」
手をテーブルに揃えて置き、静かに語った父親。
娘も、スプーンを動かす手を止め、静かに聞いており、ゆっくりと、テーブルにスプーンを置く。
「わたしは、反対しないわ。皇帝が正しいとは、思っていなかったから」
「アメリアに、迷惑を掛けるかも知れんのだぞ?」
娘の力強い視線に、父親が申し訳なさそうな表情を浮かべる。
それに、娘は眉をピクリと震わせた。
「わたしが、反対したら、止める程度の決意だったの?そうじゃないから、話してくれたのでしょ?」
すくっ!と、椅子から腰を上げ、ゆっくり父親に歩み寄り、傍に立ち、娘は続ける。
「わたしは、父さんの娘よ。父さんが、間違った道を選んだなら、反対するわ。けど、正しい道なら、例えどんな苦労があろうと、喜んで受ける。そう育ててくれたのは、父さんでしょ?」
言い終わると、床に膝を着き、父親の膝に、頭を乗せる娘。
その頭を、困った様な、喜んでいる様な、複雑な表情を浮かべ、撫でる父親。
「すまんな」
「謝る様な事ではないでしょ」
怒った様な口調で返ってきて、父親はますます複雑さを濃くしたのであった。
ヴァレンチーノが、こっそり結婚を執りなっていることは、若者の間で、密かに広がっていた。
そして、17組目の、秘密の結婚式が、冬の寒い日に、行われ様としていた。
「とうとう明日ね♪星が綺麗だから、晴れるわよ♪」
ウキウキとした表情で言ったのは、アメリア。
その前には、友人が居た。
「あたしは、結婚なんて、しなくても良かったのよ?そんな事しなくったって、互いに一緒に居ようと思っていたら、それで良い話でしょ?」
素直じゃないのか、不服そうな友人の声。
結婚が決まってから、というもの、不機嫌な彼女は、愚痴を良く溢している。
それを毎回聞かされているアメリアは、心得たもの。
「そんな事言ったって、もう明日よ?ウェディングドレスは完成している。ブーケも、皆が作ってくれた。親族だって、揃ってるのよ?」
だが、相手も相手で、納得いかない表情は変わらない。
「そりゃ、こんなご時世で、列席者は親族のみ。だけど、見世物には変わらないじゃない」
「はいはい。そんなに嫌なら、何で、今ここに居るの?ドレスだって、わざわざ作ってさ」
呆れた口調で、アメリアが言えば、相手は押し黙った。
何だかんだ言いながら、友人は、明日を楽しみにしているのだ。
白いワンピースに装飾を付けただけの、質素なドレスを作る。となった時も、散々不満を言っていたのに、結局は、採寸を大人しく受けた。
素直じゃない友人を持つと、苦労するわ。と、内心苦笑しながら、アメリアは、友人を抱き絞める。
「少し早いけど、貴女に、幸あらんことを」
密かに行われる結婚式は、教会の鐘が鳴らされず、列席者は、親兄弟のみ。
それでも、当事者達は、一様に幸せ一杯の表情で、巫女として手伝うアメリアは、その光景に、幸福な気分になる。
その当事者が、一番の友人となれば、更に、幸福な気分だ。
いつもより行動が機敏で、朝から気分は良く、気を緩めると、スキップさえしそうな程、足が軽やかであった。
親友の新郎は、街一番の美丈夫と有名である。
腰にまで伸びた金髪と、誰よりも抜きん出た身長、例えるなら海の様な色の瞳は長く、すっと伸びた鼻に、引き締まった口元、余分な肉・筋肉の無い身体、どこをとっても、非の打ち所が無い外見なのだ。
そんな彼が、簡単にとはいえ、正装すると、つい、アメリアさえ、見惚れてしまいそうになった。
「チノさん、有り難うな」
「有り難う」
式は、滞りなく終わり、新郎と新婦は、並んで、司教に礼を言った。
司教のヴァレンチーノは、親しい人間に、「チノ」と、呼ばれている。
新郎と新婦は、アメリアを通じて、司教と懇意にしているのだ。
その、親しい2人の式が、ヴァレンチーノが行なった、最後の結婚式となってしまったのは、運命なのだろうか?
半月後、18組目の、式の段取りの為、彼は、ある家へと向かっていた。
「司教、ヴァレンチーノだな」
行った先の家、そこで待ち受けていたのは、皇帝の近衛兵団。
ヴァレンチーノが、密かに、結婚を執りなっていた事を、知った皇帝が、彼を嵌める為に、嘘の結婚をでっち上げたのだ。
「貴様を、反逆の罪で、捉える」
「……神の教えに、背く事は出来ぬ。それだけじゃ」
ドカッ!とその場に座り、大人しく、お縄に掛かるヴァレンチーノ。
こうなる事は、判っていたのだ。
いつまでも、皇帝を欺く事は、出来ないと。
「父さん!!」
「ぬ?アメリア!!何故、お主が!!」
連れられた先、城の地下牢には、娘の姿があった。
「口を開くな。行け!!」
だが、会話を許さない兵士に押され、ヴァレンチーノの足は、渋々と進む。
「すまぬ。アメリア」
彼女の入れられた牢の前、通りすがりに呟く、ヴァレンチーノ。
自分の行いで、多少誹謗、中傷はあるだろう。と思っていたが、まさか、娘まで、捕まってしまうなど、彼は思っていなかった。
反逆の罪は、親兄弟にまで至るのは、当然なのだが、本当の親子でない、アメリアにまで、及ばないだろう。という思惑は、残念ながら、外れてしまった様だ。
≪続く≫